雲と私情

創作品

芥子

春から初夏に掛けて雛芥子と云う花が開く。

路傍に見るそれを、手折り摘み取る気も起きない。

 

花弁四つを散らしてしまって、そうして残った花柱を、私は見つめられる気がしない。

 

その顔を、私は見つめられる気がしない。

 

表情の奥、筋肉や血管、神経系やリンパ系を越えて、更に深層に有るもの。それら表層を司るもの。脳と呼ばれる場所。

私は他人のそれを、見つめられる気がしない。

 

そこに神様など宿ってはいない。

そこに心など有る筈もない。

有るのは表層に、鏡だけ。

 

私は私の考えと云うものを、見つめられる気がしない。

下を向いて歩いているのは他人を避けたいからではない。

この間違った生き方と向き合うのがとてつもなく恐ろしい。

 

向き合っているのだと嘘をついて、自分にすら嘘をついて、盲てばかりのこの欺瞞。

 

私は見つめられる気がしない。

私は見つめられる気がしない。

 

瞑った瞼に見る暗闇。

 

この花を散らした後、人生の終わり方を。

命日

もう二度目、いや、三度目だったかも知れない。

 

ダチュラと言う花。

 

朝鮮朝顔曼荼羅花、気違い茄子とも言う。

全草に含まれるアルカロイドは、含めば酩酊を起こしたり、意識障害を起こしたりと、基本的には、人体には有害である。その性質を利用して麻酔としても使用される。酩酊状態になるとは言え、服用により多幸感が生じる訳ではないし、寧ろその逆である。

朝顔とは名ばかりで、その花が開くのは夜。

 

七夕とは別に、何の関連性も無い。

 

俺はただ、命日を忘れられないだけである。

だから今日が終わろうとも、七夕の夜は未だ、終わるわけじゃない。

月に芍薬

 

何も見えないまま日が落ちて

何も言えないまま月が差す

僕ら暗い夜に立てなくて

何もわからぬまま夏が来る


どこにも行かないよって、ねぇ

踵を動かさないで

ここには居ないんだろ、なぁ

その爪先すら浮かないで

聞こえない足音を覗いてあの春を思い出す


街灯、陸橋下、駅、剥げたアスファルトと信号機

ぼやけて見えていた僕の、擦れたレンズにだって

雨降る道の竹林に、晴るる靴に泥の跳ねた跡

今は全部、全部が確かに見えるんだ


君の泣いた目に僕が掠れても

意味のない言葉ばかりが浮かんでも

夜を流れて往く嘘に

毒を飲んだって君を見ているから

きっと見えてるから

 


くだらないよ

 

何がしたいんだろって、さぁ

まだ俯いてる僕がいて

何が痛いんだろって、ほら

また心の中覗き見て

触れない昨日ばかりのさ

この日々が本当詰まらなくて


祭りの夕も外套も春に芽吹く花の淡い色も

ぼやけてばっかの景色だ、冷めたレンズになって

バス停裏の坂道に、跳ねた水の音に止めた息

今じゃ全部、全部が盲いて見えないんだ


君に凪いだ風、声も出せなくて

意味のない言葉で溜め息を誤魔化して

僕をなぞっている詩に

毒を飲んだって君は見えないから

ずっと一人なんだから

 

 

なんにもわかんないだろ

形のないものが大事だとか

見えないものはわかんねえよ

言葉足らずの僕に価値はねえよ

何も知らない振りをしてまた人を嫌って行くんだろ

まるで毒を飲むように

付ける薬もないように


君の泣いた目に僕が掠れても

意味のない言葉ばかりが浮かんでも

夜の中に咲く花に

毒を飲んだって君を見ているから

きっと見えてるから


きっとわかるから、ずっと知ってたから

 


バス停裏の坂道に、跳ねた水の音に止めた息

淡い月の夜に毒を飲む

僕は花を嗅いでいる

命月

希望の希の字が命に見えた。

 

 

何時もの事では有るが、此度は取り立てて仕事で忙しく、暫く筆を執れなかった。執る機会を捨てていた。如何にも俺には課題が多い様で、人格の形成は未だ成らずに居る。

そろそろ羽化の季節だが、俺には未だに羽が生える兆しが無い。わかりやすく言うなれば、大人に成れる兆しが無い。

陳腐だが、羽化と言うのは的を射た喩えだと思わないか?

いや、的と言うか、これは最早ブルズアイだろう。大人に成るとは自由な尺度を得る事だと言えるし、それは普遍的真実で有るが、羽でも生えて来ない限りは自由な尺度等、われわれには持ち得ない。われわれは所詮、二足歩行のけだものに過ぎない。

 

渡された筆を執って何を描いたのだろう?

文学フリマに出るのに、作品を書いた。出る為に、ではなく、出るのに、で有る。俺は作品の事を子供だとか切身の様に思える程に傲慢では無いし、作品と並行する積もりも無い。しかし良い機会だと思った。一年は真面に筆を執らなかった俺が、どの程度、腕を鈍らせているのか見てみたかったから。

曲がりなりにも俺はこの一年苦労をした訳で、それなりに良いパースペクティブを得る事は出来ていた。自賛では有るが、以前よりも技量を増したと言って良い。と言うか、以前の俺が怠け過ぎていた。鈍る余地など無い位に怠け、甘え切っていた。だから小説等書けた試しが無かったし、ただの詩書きで有った。

俺は大人に成ったのではなく、ただ甘えの形状や寸法を覚えたのである。この作品もそうで有って、主人公が大人に成る話では無く、自分の甘えを理解して行く話に過ぎない。そして彼の甘えは、全て「彼女」に向かう様にしている。要は女に甘えているのである。だから心中する作家の如く流されるままだし、だから俺は彼に対して乳飲み子と言う表現を使った。俺は現代人が求めているオリジナル性と言う幻想を否定したくて、意図的に主人公像を練り上げた訳である。彼の根拠とする所は全て彼女で有り、彼自身には何ら根拠が無い。

 

と、未発表の作品について語ったが、そも未だ発表されていないのは如何してか?

文学フリマを欠席したからで有る。個人としてではなく、サークルで、だ。俺は直前まで出る積もりでいたが、メンバーには間に合わせる意志が無かった。そも開催される気ですらいなかった様である。俺は散々書けと言ったが無意味であった。まぁ、ぶん殴りに行ってまで書かせる意志は俺にも無かったし、どうしようも無かったのだろう。沸々と怒りは感じるが、どうにも出来ないのならば仕方が無い。俺のこれは間違い無く敵意だし批難だし軽蔑だが、だから消えろ、とは成らないし、思わない。取り立てて進んで取られる行動も俺には無い。俺が彼らから機会を頂いたのには変わりがなく、それが無に帰したのはただの裏目に過ぎない。運の風向きとか縁の結びが悪かったのだと思う。許せない事がまた一つ増えただけで。

 

こうも人々個々人に恨み辛みの念を向けられる様になったのには、居る環境の過酷さや馬鹿らしさが起因している。自分にも非があるとわかっていても、それが50%を切っていたら切って捨てる。俺は悪く無いし、環境が悪いと浸々と思う。けれども反論は直ぐに浮かぶ。俺も全霊では無かっただろう、と。それは仕事でもそうだし、生活でもそうだし、創作活動でもそうだ。アルコール分40.5度のウイスキーは舐めるだけでも辛いのに、自分の非は直ぐに認めない。

確かに此度、俺は作品に対し、僅かながらも妥協をしていた。終劇までの段取りを、些か圧縮し過ぎて勢いを寧ろ殺していた。勢いを生かす為の語彙を探すには、時間も器量も不足していた。それでも出すのが大事だと思った。あろう事か俺は、作品よりも人生を優先していた。つまり俺は、質の差はあれど、創作の上では、書けなかった彼らと同類で有る。これで出すと決めたその判断さえも、結局出せなかったのなら意味が無い。

 

此度の創作は心の穴を何か埋める機会に成ると思っていたが、そう上手くは行かない様だ。俺は大人には程遠い、チェイサー無しではウイスキーも飲めない。もうすぐ夏が来るし、つまりは命月が来る。それに何の意味も見出せない。俺はまだアニマを振り切れていない。

 

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さて、本当の俺は何処に居るのだろう?

 

断片

 

 

〇人に借りた本を読んで少し考えた

 

・全体者の一側面、タイプ、様式として僕ら人間が表れ出ていると前提しても良いが、それとは別に、君ら人間と同じ出処から、自然や物理法則から、この欲望だとかリビドーだとか言ったものが現れ出る事は、何か煮え切らないものを感じさせる。

→それは恐らく、自己を創造者と位置づけ、陰に特別な存在であると主張したがっている

からである。しかし誰も、本当の意味での創造者には成り得ない。個々の創造の質に程度の差は有れど。


・全体者になろうとする人間に碌な奴は居ないし、それを(赤の)他人に、それも複数人に求める奴は、尚の事である。

→前者は俺も他人事ではないが、後者の様なふざけた思考回路をしているのは僕の上司ぐらいのものか? 皆が全体者になる(である、の方が的を射ているか)事が目指すべき場所だとでも考えているのだろうか? 端的に馬鹿。

 

 

〇最近

 

・髪を切ったついでと言うか、折角街に出たもののやる事が無かった為に、わざわざ映画館でシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観た。高校時代にTVアニメ版を観て以来、これと言ってコンテンツに触れる機会が無かったが、友人らが映画の話をしていて気になったのと、何かに燻っている自分に厭き厭きとして、そういう動機付けをして、観る事にした。高校生の自分には注視出来なかったであろうテーマ性がそこにはあって、まあ、この歳までアニメなんかを抵抗無く観られる様な人間で良かったと思う(この作品はそういう人間をある意味で風刺し、刺激したい意があって制作されたのかも知れないが、それを受けてどう動くのかは、どうあろうと当人次第だろう)。

 

・仕事の事で燻っていたのは何時もの事だし、言うまでも無いが、まぁ、曲がりなりにも立つ事が出来たんじゃないかと思う。本当に曲がりなりであるが。

 

・これはこれでも俺は頑張った。

 

・全然執筆が出来ていないという旨の友人のツイートを見掛けたが、俺も全然執筆が出来ていないし他人事じゃないし見掛けるに留めている場合でもない。これに関してはそもそも頑張れていないのが真因である。要領の悪さとリソースの割き方が、何かを解決する上での己の問題点の過半数である。

 

・待っていた、春が来た。

 

・人と花見が出来た。良かった。良かった事を、俺は忘れてはならない。

 

・一年が経つ。

 

・新年度が始まる。

 

・何か新しい様な匂いがする。

 

・俺は改める。

 

・きっと、どこまでも行くだろう。

上下関係、関係性、対象(意味:私は鑑賞する)

 

 価値観、月

 

 

・元来、人を見下しているし、自分は他人に対して判断や評価を下す事ができる存在だと、そういう前提を俺は何故か当たり前に所有している。何故だろうか。俺は君らとは違う。価値の勘定の仕方、見方が違う。つまりは価値観が違う。君らと違うレンズをしているから、君らとは見えている物が全く異なる。俺にしかわからない価値が確かにある。君らにはわからない、俺にしか見えていない価値がここにはある。だからどれだけ確かな経験の差、実績の差があろうと、俺は数多の先人さえも見下している。自分は見下される側であると知りながら、俺は容易に君らを見下している。俺が見下せないのは、本当の意味で見下せないのは、この月光だけである。

 

・観月とは行為を名詞化した二字熟語である。が、というよりも、俺の印象にはこの言葉からは地名の方が先行して映る。作中で名を出した訳ではないが、その地を想像で描いた詩を、人に渡した事がある。

 

・きっと、俺の価値観は月並みである。

 

・観月の際、俺は月並みである。

 

・それは凡庸とは違う。

 

・君らとは違う。

 

 

 君らにこの意味がわかるだろうか?

 観月とは即ち、本質を写す為の名前である。