雲と私情

創作品

うおおとは何か

今日は良い感じに飲めた。梅酒を一杯と、勧められた日本酒(獺祭と謂うようだ)をお猪口で一杯。日本酒は甘くて僕の口に合わなかったが、美味さはわかった。何より飲み易い。

僕が幾ら酒に弱いとは言え飲んだ量はやはり少ないし、残った酔いも強くはないけれど、ストレスが明後日の方向に飛んだのがわかる。だから良い感じに飲めた。明日は健康診断だからこのぐらいじゃないといけないのもあった。

親しい間柄で行う飲みでは、ニュアンスだけ通じればいいという甘えた考えから生じる語彙が往々にして飛び交う。

今回頻出したのは「うおお」だ。

うおおとは何か。それは多分、感動や一体感による高ぶりを指した言葉なのだと思う。

Twitterの知り合いとオールした。普通に生きていたら会わないようなヤバい人間と踊って、うおお!ってなった」

うおおという言葉が初めに出たのはこの文脈に於いてだったと思う。友人の言う「うおお」は僕が想像するに、生きる世界がまるで違う人と繋がりを持ったこと、一体感を抱いたことによる高ぶりを指していた。

僕らが飲みの席でこういう話を始めると、会話は決まって誠実、理想、真実といった方向に舵を向ける。具体的には、一人が「うおお」等の言葉を使ってニュアンスで殴ってくる。正確に理解できない二人はそのニュアンスの分析(アルコールを摂取しながら分析とは!)を開始する。

善いのか悪いのか、美しいのか醜いのか、話はそういった基準で進められて、真実が何処にあるのかが突き詰められていく。今回もそうやって、うおおの輪郭と核心が詮索された。

僕の解釈では、うおおという表現はくだらない場面にも使える。渋谷のクラブでEDMに乗って踊ったとか、そういう文脈に於けるうおおだっておそらく存在する。クラブに行った経験は僕にはないし、良くわからないが。

しかし、高尚なうおおは確かに存在するのだと思う。僕ともう一人は話している内に、より誠実さがあって、より理想に沿っていて、より真実味のあるうおおを求め出す。

とりわけ僕はとことん求める。もう一人は求めながらも慎重に理解を進めようとする。うおおを言い出した当人は、自分の感じたことに混じり気はないと主張する。

僕らはそうこうしている内に一人ひとりの主張に乖離が生じていることを自覚する。議論が平行線を辿るという奴だ、その自覚によって、話は違う側面から語られていく。うおおは運によって起きるとか、自分から飲みに誘えば起きるとか。俺は飲みの場のうおおが本当のうおおだとは思えなかったけれど。

ただ、まぁ、軽いノリでのうおおは楽しいのだとも思う。浅いとかくだらないとかはさておいて、それは楽しいのだと。しかし、僕は初め、相手のことがどうでも良ければ「うおお」にはのめり込めないだろうと思っていた。

僕の友人にとってTwitterの仲間がどうでも良い相手だったかと言えば、きっとそうではない。いや、部分的にはそうなのかもしれない。例えそうでも、彼のうおおには混じり気がない。

そもそも彼が「本当」や「真実」という語彙を使わなかったのは、そういう言葉では言い表せないからなのだと思う。つまりは関係性に於けるお互いの興味関心に隙間があろうと、一夜を踊り明かしての「うおお」は存在するのだ。

本当とか真実のような奇麗な言葉に形容されなくとも、その楽しさは、純然たるものなのだろう。そうであってこその「うおお」なのだろう。

では僕が欲しいのはうおおなのだろうか。