雲と私情

創作品

文才

本当があるから嘘がある様に、自分に持たざる物があるから才能という言葉が生じるのだと思う。

小説家や音楽家の書く文章を見ても、一般人のブログを見ても思う。そこには、自分が持っていない才能がある。

驕った事を言うのなら、僕にだって文才はあるのだと思う。他の人が持っていない特徴、衝動、切れ味の様な物が。けれど、だから自分はそのままで良い〜なんて言葉では納得ができない。僕は全部が欲しい。きっと身の程を弁えない完璧主義者なのだ。個人的には芸術至上主義を謳いたいけれど。

美しい作品に触れると、途端にそれが欲しくなる。自分もそういった物を作りたくなる。自分の方向性といった物を容易に曲げるのだ。それは多分褒められたことではなくて、自分が創造者になりたいという、作品の上に自分を置こうという驕りに過ぎない。

 

世界がどうなろうと知ったことではなく、とは言え情勢の影響だけは受けて、4月から僕は社会人になった。

会社の事を逐一説明したり不満を述べるつもりはないが、まあ、物を書く時間と気力は湧いて来そうにない。持て余した衝動でこんな所に文章を連ねているぐらいだ。「文才」などと、誰も興味を抱かないような題目を置いて。

最近、曲を作りたいという思いが湧いてきた。ただ思いがあるだけで、何か完成させた訳ではない。頭の中でメロディを作り、詩を書きはしても、どうにも納得が行かない。素人なんだから当たり前か。何より教養が無さすぎる。

今の僕が何か大きなものを持っているのだとすれば、それは反抗心なのだろう。社会に出て驚いたよ、自分にもまだ怒りという情があったらしい。人間みたいで善いね。

僕はそれをガソリンに曲が書けたらと思った、入社して2日間は負の感情が大きかったのだ。

けれど3日目、いざ現場を見学すると、以外にもそこは暗くはなかった。有り体に言ってしまえば、そこにいることで、自分の中に正の感情が芽生えた。僕は気持ちよくなって、帰って飲酒した。ほろよい1缶、それだけで酔えるのは我ながらコストパフォーマンスの鬼だと思う。

しかし1度寝て、脳が情報を整理して、今の僕は焦っている。これでは曲なんか書ける筈がないのだ。

あの現場も大きな枠組みの中では芸術なのだと思う。美しく、至って人間的な社会構造なのだと思う。しかしながら、それは無謬のものではない。

なのに、そこにすら僕は惹かれた。それも有りだと思ってしまった。結局その美しさにも欠いた物があって、そこに落ち着いたって足りなくって、堂々巡りなのにね。

僕は役割に浸り切って満足する事ができない。社会人になっても覚えるのは劣等感だけで、生産性のある人間には成れない。

 

才能は所有ではないのかも知れない。

焦って足りない所を埋めるより、突出した山を築き上げたほうが美しいのだろう。

だけど割り切れない。きっと、こうやって燻っている方が僕らしい。個性なんて知るかよ、意図された個性はもはや社会性だろ。

兎に角、嫌な物は嫌だと突っ撥ねた方が楽だし無意識的で良い。どうせ社会も人間も嫌いなままだし、斜に構え過ぎて重箱の隅に穴を開けるくらいのスタンスでやっていくほうが素直だ。

報道も世論も馬鹿らしくて面白いね、一歩退いて見れば現状はSFめいているし、スクリーンの中みたいだ。ともすれば僕もオン・ステージできる、所詮はエキストラだけど。

惹かれることと信じることの間に境界線があってもいい。恋と愛の違いみたいでロマンチックだな、信じる力がなくたって愛は愛だけど。

 

耄碌しても人が嫌いなままだし、心に線を引いて生きようと思う。