雲と私情

創作品

休日

会社での休憩時間にこの文を書き始める。

 

 

昨日は休日だった。

世の中は緊急事態だそうで、僕は外に出ることもできず、ネットもないので録に暇も潰せず、作詞を少しとどうぶつの森を相当やった。

積んでいる大衆文学を読めば良かったと思う。反省すべきところだが、大衆向け小説もゲームも消費娯楽だし変わりはないかもしれない。僕の創作に繋がるか否かの違いはあるけど。

 

作詞について。作品のテーマとなるタイトルは予め決めていた。僕の書く話は先に方向性を定めてから書かないと文脈がブレにブレるので、最初の段階で曖昧模糊なイメージからタイトルを抽出するのが当たり前となっている。小説にしろ詩にしろそこは変わらない。

ただ、僕の方法とは真逆に、書きながら方向性を構築する輩も周りにいるから驚きだ。ブレさえ生かせるのは才能だと思う。嫌味ではない。

ともあれ、数日間そのタイトルにそぐうように詩を認めて行ったが、指先からはタイトルにそぐわない言葉のほうが多く出てくる。最近は脳の処理能力が落ちているので余計だ。こうしてブログに生活の一旦を残しているのは、自分の行動を整理したいからに他ならない。

作曲については他の記事で少し述べていたが、作詞はやっとワンコーラス分を書き上げたところだ。ただまあ、時間を掛けているだけ納得の行く物にはなっている。あまり集中はできていないが、作風的に出来は上出来だろう。理由をつけてできない振りをしてサボるのはもう辞めたい。

本当なら、この詩は学生時代に書き終えるつもりだった。それだけの意味合いが篭っていた。けれどもこの情勢では、卒業式も行われず学生時代最後の作品もまだ手元にないこの状況では、自分が学生を終えたとはとても思えない。学位授与の証が郵送で届いたって、この僕が人生に大きな区切りを付けたとは信じられない。

明確な終止符があるとするならば、それは自分でしか打つことができない。

僕には作品しか術がないのだ。

時期が終わるから作品を書くのではなく、作品を書くからこそ時期が終わる。環境なんて知ったことではない。

けれども僕は、何もしなければ明確に年老いていく。ただ生きるには長い人生でも、無限に続く訳ではない。人はいつか死ぬし、学生を気取れる時期にも限度がある。大学生が制服ディズニーするのは許されても、三十路がやるのはきっと許されないだろう。僕にはそんなのどうでもいいけど、まあ、それと同じことだと思う。

畢竟、時は因果なんて知らん顔で全部を流して行く。人生も名盤も新型コロナウイルスも押し並べて流して行く。時間と物理法則は皆に公平だし、見方によっては愛なのかも知れないね。

だったら時と僕との対決だってどうでもいいのかもしれないけれど、やっぱり僕にとってはそうではない。当事者意識として、何時までに書き上げないと駄目だという意識が有る。

 

サイレントギターを買いたいけれど、夜勤続きで暇が無い。PCも壊れかけだし容量が無い。機材がゼロなので自由な作曲は難しいだろう。

 

それでも、夏が来る前に作曲を終えたい。

 

 

帰宅して漸く書き終える。

米を炊くにも時間が掛かる。僕みたいで残せないから全部食べるよ。