雲と私情

創作品

紫陽花や

昨日の誠 今日の嘘 と続く、正岡子規の句が有る。紫陽花の花の色が日ごとに移り変わってゆく様子と、心情の移り変わりを重ねて詠んだ句だ。

それを批判したいとかでは無いが、僕は僕に関して言えば、心の変容などあってはならないのだと思う。

勿論人の心は変わるものだし、流動的だからこそ、心は命というものに根付いている。もし止まっているならば、それは死んでいるのも同然であり、然るに、人の心というものは移り変わりを続ける。

だが、まさしく同時に、心に普遍性を求めるのも人間的な考えだ。少し言い方を変えるなら、排他的になって同じ所に留まり続けるのも、それはそれで人間的な考えだ。人が真実の愛を求める時、その求め方自体に動きはあれど、真実の愛という想像の産物に動きがあることは少ない。それは寧ろ、ある種の固定観念であるとすら言える。

求める像に具体的な動きを見るのは難しく、抽象的なイメージだからこそ、人はそれに期待を抱き、動くことができる。

そもそも僕は、一度好きになった物を嫌いになる事に強く抵抗を覚える。少なくとも今は。

前に話したかもしれないが、僕は自分の心に線を引いていて、人との関係性も区切って考えている。大学時代の友人も、職場の同期も、上司も、道行く人々も、距離の程度に差は有れど、結局は他人なのだと考える。言葉を安売りするなら、その他人の中でも、距離の近い人は「好き」の範疇に入る。けれどもそこに保証は無い。真実の愛なんて破り難い言葉を被せるのには、幾ら安売りしても値しない。

だから、その線を越えて、こちら側に居る物に関して言えば、そこには保証の出来る「好き」がある。嫌いになることは先ず以て有り得ないし、自分を律して、責任を負って「好き」だと言わなければならない対象だ。

だがそれも、愛としては不合格だろう。まず、愛とはなんらかの力に拠って保たれるものではなく、もっと、自然に溢れ出る物だ。常に我慢したり、踏みとどまって維持しようとするのなら、それは愛(少なくとも愛そのもの)ではなく、ただ意地を張っている状態に他ならない。自己満足と言っても良い。何かに迎合してまで守るべきものは、愛というより、人が勝手に愛の在り方だと思い込んでいる物に過ぎない。真実の愛なんて言葉がまさしくそれだ。

つまり僕の言う線を越えた愛とは、思い込みであり、一種の固定観念に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

 

 

これで結論付けても良いけれど、今回は折角だから、もう少し踏み込んで考えてみたい。意地だとか色々言ったが、つまるところ、此れは信仰に過ぎない。

曲げてはならない、外れてはならない、なんらかの道に立った自分に対してそう思い込むのは、謂わば信仰である。僕ほど極度な例は少ないだろうが、誰しもが多かれ少なかれそういった思考回路を持っている。例えば、不倫はいけないという考え。芸能人の不倫が発覚すれば、そいつに対する世間の評価は直ぐに落ちる。それは、ただいけないことだからと言う刷り込みに拠る物ではなく、それなりの妥当性が、根拠のあいまいな、理論よりも信仰に近い妥当性がある故だ。何しろバレれば社会的に死ぬのだから、不倫には、多くの人が納得する、悪性が有るのだと言える。

何を言いたかった訳でも無いが、まあ、そういう信仰を僕は美しいと感じる。或いは信仰を守ることを美しいと感じる。だから情が変わったとか好きじゃなくなったとか、簡単に言える人間を馬鹿らしいと思うし、じっさい馬鹿にして、可愛がって日々生きている。あなたに恋人が居るとして、あなたはその人をどのくらい好きだと言えますか? 信仰の無い「好き」に価値観の矛先を向けちゃっている事を、僕は簡単に馬鹿にするけれど、あなたはどんな形でも幸せな風にやっていけばいいよ。そのこと自体は馬鹿にはできないからね。

とは言え、昨日の誠が今日の嘘なら、この信仰の形さえも変わってゆくのかもしれない。こう考える様になったのも、そんなに昔の事ではないし。

約束は出来ないけれど好き、ぐらいのスタンスでいるのが、多分人間望ましい。それは普通、恋愛関係に於いても言える事なんだろう。

それでも僕が信仰を辞めずに、何年かやっているのは、脳死で生きているからでは無く、思い止まることに満足しているからでも無く、寧ろ、止まることが出来ないくらいの動きを、ただただ欲しているからだ。