雲と私情

創作品

命日

カトレアという花について。

ラン科の中で最も美しい花として有名だが、その美しさは清廉と表すよりも妖艶と謂った方が近い。木の表面に纒わり付く形で原生し、伝って来た水分を吸い取ることで成長する様を、僕は美しいと思えない。

この花の幹を切断して生けたものは、善い絵になると思う。

 

アザレアという花について。

ツツジ科の中で最も華々しい花だと感じる。五月晴れの下で笑う姿は明るく、何より色味が良い。アザレアと言うと日本ではツツジの中でも固有の種を表すが、海外ではツツジそのものをアザレアと呼称するため、ツツジ科の低木は広い意味では全てアザレアなのかもしれない。

合弁花がそのままもげたみたいに散って地に落ちているのは、善く様に成る。雨に打たれるなら、尚の事。

 

 

 

今の自分が死んでいるものとして、命日はいつだったのかとふと思う。

 

部屋に黴が生えて来たし、一人暮らしもいよいよ限界まで来ている。洗濯機を回すのは週に一度、まともな自炊は一度だってしていない。

余裕がない。休日は余暇ではないし、余生でもない。 死んでいるのと同じ様な日々を漫然と過ごしていて、それが日常になっている。

寝起きは神経が腐り果てていて最悪だが、腰を上げてみると今日が過ぎて行く不安感も何かに払拭されて行く。脳と身体が麻痺しているだけかも知れない。現状とか将来とかそういうものに関して、無意識的に、時には意識的に、もう考えないようになっている。

今日は七夕らしいが、雨天とも曇天ともつかない半端さだ。晴れでないだけ増しと言うのも、薄く明るい空の午前を思い出すと、本当ではない様に思えてくる。良く分からない。

良く分からなくなった日が命日だったのだとしたら、それは一体いつの事なんだろうね。生まれる前からと言うのも違う気がする。生きていて分かるようになったこともある。

分かるようになった瞬間が生なのか。分からない事は死なのか。分かる事が死だから、そこにこそ生が見えるのか。良く分からない。

良く分からない様な文章を、書く事に嵌っている。創作はしたいが物にはできない。衝動こそが本当か。そうでも無いか。

 

今日は髪を切った。髪を切るにも金が要る。稼ぐ事が生きる事で、生きるの為の仕事が、現状、仕事の為の生きるが、将来、切るが、生きるが、生きる事が切る事なら、昨日は、昨日の息は、息切れは。

 

コンビニに行く為に自転車を漕いでいると雨が降ってきた。僕は小降りで安心した反面、どこかで土砂降りを期待していた。

 

除湿機を買った。届くのは三日後らしい。

 

七夕が終わるようだ。また一年。