雲と私情

創作品

月に監視されている

目が開いたら月になる、それだけの事に酷く竦む。俺はぎょっとしている。

空が青かろうが黒かろうが、月は頭上の遥か向こうからこちらを見ている。時には白く、時には赤く、不気味なくらいに丸いそれは、こちらを射貫く様に見詰めて来る。

 

もう一人の自分、というのを、俺は頻繁に空想する。

 

 

人間は普通、たった一人の自分に帰属し、多数いる他人を認識する。多数いる他人の内の一人に集中し、差別的に捉える場合は有れど、自分が内包した複数の人格を、統合したいと考える事は稀だ(分けている意味がなくなるから。職場に於ける役割や、対人関係に於けるキャラクター像などは、自分の方向性を分散させることで功利的に人の目を欺き、本来的な自分の姿を暈した物だと言える。そうやって本当に欺いているのは、紛れもなく自分自身の目である)。

多様性という言葉で無関心を隠す事は有れど、自分の事と成れば、その多様性ばかりに関心が行く。散り散りな方向性ばかりに目が向く。結果として自分がわからなくなる。

1の中に4がある事を理解してはいても、その4を1に収束させようとはしない。大は小を兼ねると言うが、小も大を兼ね得るという事を、人間は簡単に忘却してしまう。

書いていて違和感しか覚えない。

俯瞰して自分の事を見据えられる人間が、如何して分け隔たれた人格を一つに統合しようとしない。乃至は、それは違うと知っていて、一息に統合しようと働きかけても、如何してそれが上手く行かない。

 

もう一人の自分を見出しておいて、如何してそいつを放棄している。

 

あんたに理解されなくても良い。これは俺の話だ。

 

 

 

深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いている。ニーチェが遺した言葉、記号の列は、現代でも普遍の物であると解釈され、人々に祭り上げられている。同様に、俺も普遍的だと思っている。

ふと月を覗いて見ると、こちらも覗かれている様な感覚がする。自他や主客の問題ではない。俺の主観に於いて、俺はそう感じてしまうのである。

月の光は反射光。衛星の表面を照らしただけの、深淵とは程遠い表層的な光だが、それでもその美しさを覗き見る様にして見てみると、相対したかの様に、向こうは此方の美しさを覗き見てくれる。

自分と違って美しいと思えば、隙を突く様に、自分も同じく美しいという思いが返ってくる。自己否定の裏目、自己肯定の欲求。主観に浸っている内は、それが簡単に叶えられる。

平易なナルキッソスの鏡である。

自分に向いた主観の偏愛。歪んで映る月光に、俺は容易に見蕩れてしまう。

あの光だけが全てだと思えば、今までの自分の行いも全て受けられると思ってしまう。彼方を統合するより前に、此方が融解してしまう。自分というのが小さく思える。小さい自分は軽微であり、対象である。

しかし、融解しても尚、ナルキッソスの鏡の中の真実性は忘れられない。主観に於いて、自分と月光は一体だと思う。それは真実だと思う。統合できない自分が幾ら小さくなっても、それは手放せない真実なのだと、俺は知っている。けれども全ては主観である。哲学者の発狂の片鱗を知った気になる。

 

気付けば上書きする様に思考が滑っている。融解させられども、溶け込める程の熱量は俺には無い様だ。やがては小さな自分とやらに認識が帰っている。

月光を対象として見る。あれはもう一人の自分だと、もう一度思い込む。美しい光も、醜さの裏返しだと知った上で見る。それら概念が綯い交ぜになった対象へと語り掛ける。

 

俺はおまえの醜さを良く知っているぞ。

 

対象も同様に、おまえの醜さを知っているぞ、と返して来る。そして同時に返って来る。

 

私はあなたの美しさを良く知っているわ。

 

俺はデジャヴを覚える。

もう一人が、そこにいる。

忽ち此方は融解する。

 

 

月を一つの目に思う。

そう思えばわかる。大気に境界が有るのがわかる。此方に統合したいという要求は強く、されども俺は酷く小さい。矮小な物は従属するしかない。彼方に従属するしかない。単純な法則に甘えている。上手く行かない、の意味がわかる。

 

 

月に監視されている。

それが、堪らなく心地良い。

 

 

 

なぁ、わかるか。

あんたにこれがわかるか。

 

この話の何割が創作だと、他人事だと、あんたはその主観で捉えるんだ?

 

なぁ、あんたにこの意味がわかるか?