雲と私情

創作品

並木道

「俺は理想という名の都市を造っている。

 頭の中には都市が有る。欲に塗れた雑多な繁華街では無く、生活の為の剥き出しな機構でも無く、奇麗に整理された、現実には無い高尚な都市だ。

 俺の夢とは都市の開発だった。その夢の意味とは、美しい物を作るというただ一点だけだった。他人の為に成らなかろうと、どれだけの資産が掛かろうと、俺は一心に美しい環境が作りたい。薄汚れた拝金主義の都市を嫌い、欲の無い合理的な都市を作る事が、俺の中の、一番の欲望だった。

 都市の中には森が有り、森の奥には灯りが有る。それが全ての原動力だった。都市は大勢の人間に依ってではなく、ただ一人のエネルギーに依って保たれていた。それは俺で有りながら、俺の物では無かった。俺はそれがひたすらに手に入れたかった。だから物を書いていた。頭の都市を形にしようと思った。

 現実にも電子上にも表せない都市を、俺は脳裏に作り続けている。」

 

 

 

今日は一駅先の街まで出た。胃に物を詰める為に電車に乗ったのは今思えば馬鹿らしい。馬鹿らしく思うのは期待したほど良い飯では無かったからだろうか。他に買い物もして帰ったから、生活習慣を逆転させてまで外に出た意味は有ると思いたい。

 

一駅先の街について。

引っ越したのが今年の四月で、散策をする様な余暇は僕には無かったから、その街を歩くのは今日が初めてだった。駅前の区画は碁盤の目の形をしていて、規模も空気感も違えど、それは少しだけ京都の街並みを感じさせた。

東に数百メートル歩くと並木道に出て、僕はその通りを歩いた。今の季節だと頭上は深緑だが、春には桜が咲くらしい。少し雨が降っていたけれど、雨の並木は風情が有って良かった。頭の都市にもこんな道を描いていた。

並木道には点々と店が並んでいる。若い世代に縁の無さそうな服飾店、二周り前の時代を思わせるオーディオ店。それに、瓢箪を飾っている何だかわからない店。どれも僕の想像力では表し様の無い物ばかりだった。僕の為には機能しない店の並びが、眼前に、ひっそりと、荘厳なまでに佇んでいる。僕は並木を歩いていて、山頭火の句を思い出した。

 

まっすぐな道でさみしい。

 

心で、何か失った事を、思い出した。道を歩いても一人だと、そう思える程にまで、僕の理想は独りよがりなのか。静かに苛立ちを覚えた。

並木道で自転車に乗った子供達が僕を追い越した。会話を盗聴すると、僕が電車を使って行こうとしているショッピングモールに、傘も差さずに行くらしい。その事にも苛立ちを覚えた。

並木道は森に繋がっている。勝手にも僕はそう思い込んでいる。森の中には灯りがあるとして、その灯火の何割かは苛立ちで出来ている筈だ。

世界の全ては繋がっていると誰かが言っていたが、興味の無い物に深入りはできないし、空を見上げる人々の思う事は、それぞれ別々に異なるのだろう。考えれば考える程に苛立ちが増す。苛立ちだけで、全てわかった振りをして居たいのだ。

僕は今日も、乏しい想像力で言葉を血液に変えている。胃に入れた物の分だけ、貧しい心を対価にして。

命日

カトレアという花について。

ラン科の中で最も美しい花として有名だが、その美しさは清廉と表すよりも妖艶と謂った方が近い。木の表面に纒わり付く形で原生し、伝って来た水分を吸い取ることで成長する様を、僕は美しいと思えない。

この花の幹を切断して生けたものは、善い絵になると思う。

 

アザレアという花について。

ツツジ科の中で最も華々しい花だと感じる。五月晴れの下で笑う姿は明るく、何より色味が良い。アザレアと言うと日本ではツツジの中でも固有の種を表すが、海外ではツツジそのものをアザレアと呼称するため、ツツジ科の低木は広い意味では全てアザレアなのかもしれない。

合弁花がそのままもげたみたいに散って地に落ちているのは、善く様に成る。雨に打たれるなら、尚の事。

 

 

 

今の自分が死んでいるものとして、命日はいつだったのかとふと思う。

 

部屋に黴が生えて来たし、一人暮らしもいよいよ限界まで来ている。洗濯機を回すのは週に一度、まともな自炊は一度だってしていない。

余裕がない。休日は余暇ではないし、余生でもない。 死んでいるのと同じ様な日々を漫然と過ごしていて、それが日常になっている。

寝起きは神経が腐り果てていて最悪だが、腰を上げてみると今日が過ぎて行く不安感も何かに払拭されて行く。脳と身体が麻痺しているだけかも知れない。現状とか将来とかそういうものに関して、無意識的に、時には意識的に、もう考えないようになっている。

今日は七夕らしいが、雨天とも曇天ともつかない半端さだ。晴れでないだけ増しと言うのも、薄く明るい空の午前を思い出すと、本当ではない様に思えてくる。良く分からない。

良く分からなくなった日が命日だったのだとしたら、それは一体いつの事なんだろうね。生まれる前からと言うのも違う気がする。生きていて分かるようになったこともある。

分かるようになった瞬間が生なのか。分からない事は死なのか。分かる事が死だから、そこにこそ生が見えるのか。良く分からない。

良く分からない様な文章を、書く事に嵌っている。創作はしたいが物にはできない。衝動こそが本当か。そうでも無いか。

 

今日は髪を切った。髪を切るにも金が要る。稼ぐ事が生きる事で、生きるの為の仕事が、現状、仕事の為の生きるが、将来、切るが、生きるが、生きる事が切る事なら、昨日は、昨日の息は、息切れは。

 

コンビニに行く為に自転車を漕いでいると雨が降ってきた。僕は小降りで安心した反面、どこかで土砂降りを期待していた。

 

除湿機を買った。届くのは三日後らしい。

 

七夕が終わるようだ。また一年。

反逆者

「七夕の物語が、俺は気に食わない。天帝が二人を引き離した意図も、年に一度しか会えない規則も、雨が降った年には会うことすら出来ない設定も、俺は甚だ気に食わない。そもそもの話、ただ仕事をしなかっただけで離別しなければならないなんて、道理が通っていない。仮に、それが正義だとして、それが秩序だとして、そんなものに従わなければならない理由など、俺は一つも無いように思う。俺が彦星なら、天帝を殺して宇宙そのものに反逆する。俺が織姫なら、親も家業も捨てて遠くへと逃げる。一度仕事をしなかっただけで夫婦の間を引き離すような奴も、そんな大黒柱の下にある家も、どうせ碌な物じゃない。貧しくても、人並み以下でも、二人で最低限度の生活を得られる見込みがあるなら、見込みすらなかろうと、俺は逢い引きの果てに逃亡を果たすだろう。過去に誤りがあったとして、その後の日々の殆どを労働に費やさねばならないことに、正当な理由はないし、そんな不条理を命じた天帝の心境なんて知った事じゃない。一年に一度などと嘯かれ、その日だけを希望に仕事に明け暮れ、絞り取られ続けるだけの人生なんて、俺には少しも肯定できない。夕立に打たれ、川に流されてでも、俺は良心ごと腐り果てた天帝を殺し、連れ合いだけを引き連れて、本当の意味で余生を生きるために、遠くへ遠くへと逃げて行く。」

紫陽花や

昨日の誠 今日の嘘 と続く、正岡子規の句が有る。紫陽花の花の色が日ごとに移り変わってゆく様子と、心情の移り変わりを重ねて詠んだ句だ。

それを批判したいとかでは無いが、僕は僕に関して言えば、心の変容などあってはならないのだと思う。

勿論人の心は変わるものだし、流動的だからこそ、心は命というものに根付いている。もし止まっているならば、それは死んでいるのも同然であり、然るに、人の心というものは移り変わりを続ける。

だが、まさしく同時に、心に普遍性を求めるのも人間的な考えだ。少し言い方を変えるなら、排他的になって同じ所に留まり続けるのも、それはそれで人間的な考えだ。人が真実の愛を求める時、その求め方自体に動きはあれど、真実の愛という想像の産物に動きがあることは少ない。それは寧ろ、ある種の固定観念であるとすら言える。

求める像に具体的な動きを見るのは難しく、抽象的なイメージだからこそ、人はそれに期待を抱き、動くことができる。

そもそも僕は、一度好きになった物を嫌いになる事に強く抵抗を覚える。少なくとも今は。

前に話したかもしれないが、僕は自分の心に線を引いていて、人との関係性も区切って考えている。大学時代の友人も、職場の同期も、上司も、道行く人々も、距離の程度に差は有れど、結局は他人なのだと考える。言葉を安売りするなら、その他人の中でも、距離の近い人は「好き」の範疇に入る。けれどもそこに保証は無い。真実の愛なんて破り難い言葉を被せるのには、幾ら安売りしても値しない。

だから、その線を越えて、こちら側に居る物に関して言えば、そこには保証の出来る「好き」がある。嫌いになることは先ず以て有り得ないし、自分を律して、責任を負って「好き」だと言わなければならない対象だ。

だがそれも、愛としては不合格だろう。まず、愛とはなんらかの力に拠って保たれるものではなく、もっと、自然に溢れ出る物だ。常に我慢したり、踏みとどまって維持しようとするのなら、それは愛(少なくとも愛そのもの)ではなく、ただ意地を張っている状態に他ならない。自己満足と言っても良い。何かに迎合してまで守るべきものは、愛というより、人が勝手に愛の在り方だと思い込んでいる物に過ぎない。真実の愛なんて言葉がまさしくそれだ。

つまり僕の言う線を越えた愛とは、思い込みであり、一種の固定観念に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

 

 

これで結論付けても良いけれど、今回は折角だから、もう少し踏み込んで考えてみたい。意地だとか色々言ったが、つまるところ、此れは信仰に過ぎない。

曲げてはならない、外れてはならない、なんらかの道に立った自分に対してそう思い込むのは、謂わば信仰である。僕ほど極度な例は少ないだろうが、誰しもが多かれ少なかれそういった思考回路を持っている。例えば、不倫はいけないという考え。芸能人の不倫が発覚すれば、そいつに対する世間の評価は直ぐに落ちる。それは、ただいけないことだからと言う刷り込みに拠る物ではなく、それなりの妥当性が、根拠のあいまいな、理論よりも信仰に近い妥当性がある故だ。何しろバレれば社会的に死ぬのだから、不倫には、多くの人が納得する、悪性が有るのだと言える。

何を言いたかった訳でも無いが、まあ、そういう信仰を僕は美しいと感じる。或いは信仰を守ることを美しいと感じる。だから情が変わったとか好きじゃなくなったとか、簡単に言える人間を馬鹿らしいと思うし、じっさい馬鹿にして、可愛がって日々生きている。あなたに恋人が居るとして、あなたはその人をどのくらい好きだと言えますか? 信仰の無い「好き」に価値観の矛先を向けちゃっている事を、僕は簡単に馬鹿にするけれど、あなたはどんな形でも幸せな風にやっていけばいいよ。そのこと自体は馬鹿にはできないからね。

とは言え、昨日の誠が今日の嘘なら、この信仰の形さえも変わってゆくのかもしれない。こう考える様になったのも、そんなに昔の事ではないし。

約束は出来ないけれど好き、ぐらいのスタンスでいるのが、多分人間望ましい。それは普通、恋愛関係に於いても言える事なんだろう。

それでも僕が信仰を辞めずに、何年かやっているのは、脳死で生きているからでは無く、思い止まることに満足しているからでも無く、寧ろ、止まることが出来ないくらいの動きを、ただただ欲しているからだ。

処世術(夜明け前に、)

嫌いという言葉は人の意識か感情か、20を超えてもわからない。嫌いなものを上手く処理できないから大人に成れずに居るのだろう。

人が他人の事を嫌いだと思うのは大方、他人に見出される悪が自分の中にも内包されているからなのだと思う。自分と世界は切り離せないし、世界の内に他人が居て、他人の内に悪があるなら、その悪は畢竟自分と繋がっている事になる。世界と言う言葉が抽象的なら、地球と言っても構わない。同じ重力、同じ物理法則の星の上に、自分とは異なる他人が居ながら、その他人は自分と同じ様に当然の様にこの地球に帰属している。仲間であるとか意図する前に、否応がなく、日常で数百数千の他人と関わるし、77億人の他人が同じ星に居る。その他人に宿った悪性を、全くの無関係だと自覚的に決別するのは難しく、精々が無意識的に撥ねる程度なのだろう。僕もそうだ。だからそれが劣等コンプレックスとして働いて、嫌いという言葉に成って出て来る。或いは他人の、理解し難い気味の悪い性質が、地球上ひいては自分に内在している事を否定したくて、これもまた無意識的に突っ撥ねる。

何が言いたいかと言うと、人間は碌でもないって話だ。主観がある以上、自分と他人との比較は避けられないし、生きている上で度々、他人の気持ち悪さや心無さがそのまま自分にも当てはまる様に感じてしまう。自分も含めて人間は愚かでどうしようも無い。性悪説なんて大仰なものじゃなく、ただただ如何にもできない愚かさを、自分も他人も内包している。

嫌いな物を嫌いと思う理由を考えると、最終的には自分に行き着く。許せないことなんて無いとか言うが、何かを嫌いと思ってしまう以上、僕に許せないことは沢山ある。

けれど、そんな事を考えて自分を責め続けるのは馬鹿らしいので、他人の嫌いな部分はある程度意識的に突っ撥ねて良いのだと思う。嫌いな物を意図せず呑み込むのは感情的で良くない。どうでもいい他人なら尚更、疲れるし関わっても良いことがない。意識とか無意識とかで俯瞰的にカテゴライズした方が処理が機械的になって楽だ。線引きが大事。

自分と他人を比較することで劣等コンプレックスが働けばアイデンティティの喪失とかの問題も出てくるが、他人と他人の比較なら楽だし楽しい。自分と性格や趣味嗜好が離れている全くの他人を観察していても、自分とある程度近しい他人と、良く似ている側面を持っている事に気づいたりする。その事で間接的に繋がりを感じられる。自分には理解できない法則が可視化されて楽しい。飽くまで間接的であり、他人は他人、わからないものはわからないけど。

自分のパーソナルスペースが直径何メートルなのかは推し量れないが、僕は嫌いな物が多すぎるから、範囲はきっと極端に狭いのだろうと思う。数える程しか居ない人達の他は飽くまで他人で、近い遠いの程度はあれど、そいつらが死に瀕していても内臓を差し出そうとかは思えない。自分が生活に困ったら内臓は売るかもしれないが。

主観客観を相対的に見て自分の悪さを探してもキリが無いし、良い奴振らずに自分の考えを突き詰めた方がきっと建設的だ。できれば意識的に、嫌いなものを撥ねたい。邪魔せずに否定したいね。

 

 

 

〜最近のインプット〜

 

・ヨルシカ

夜行、花に亡霊の新曲2つに、フルアルバム「盗作」の発表。後者に関してダーティなアルバムになると聞いてはいたが、ティザー動画の様な物になるとは正直予測できなかった。エルマ、エイミーの物語の様に、今回もアルバム2つで1つのコンセプトをやるんじゃないかと思う。

 

レベッカ

巨匠ヒッチコックのサスペンス。アマプラで視聴。大胆かつ繊細な描写が良い、役者の芝居とカメラ回しで脚本を生かし切っている。二転三転する物語、もとい一転一転に醍醐味が感じられた。

 

インターステラー

クリストファー・ノーランのSF。Netflixで視聴。純度の高い科学的描写に種の存続や人生観が織り交ぜられていて学ぶところが多かった。冒険映画という観点から観ていたので、心情描写を純朴な気持ちで楽しめたと思う。

 

ペンギン・ハイウェイ

観れずにいたアニメ映画がアマプラにあったので視聴。SF。“海”がいつか自分の夢に出てきた水の球体とそっくりで驚いた。映像も綺麗。近未来感と少年期のノスタルジーの掛け合わせはピンと来るところが少なく、疾走感に乗り切れなかった。

 

イエスタデイをうたって(アニメ)

最新話まで。タイトルは昔の邦楽曲に由来するらしい。恋心の移り変わり、人間関係の移り変わりを描いていて、観ていて楽しいが、最近は良く分からなくなって来ている。流動的であるにも関わらず同じ所を漂っているみたいで、季節耕してんな〜という感想。愛とはなんぞや→もっと映画とか観ると良いんじゃない?……

 

僕のヒーローアカデミア 1期〜3期(アニメ)

公式のYouTubeNetflixで観た。盛り上げ方が上手い、観てて作者の頭の良さとか考えてしまう。4期、別のサブスクのトライアル期間で観るしかないですか?

 

BLEACH(アニメ)

アマプラ。幼少期にジャンプ作品に触れなかったので今更これを観ている。尸魂界編まで。あと少しすれば朽木白哉(顔が好き)の夢女子に成れそう…ってとこで現世に戻された。

 

チェンソーマン

単行本最新巻まで。はっちゃけていて面白い。作風からか、一読しただけではシリアスな描写を据えた目で真面目に見ることができなかった。打ち上げのシーンとタマ撃ち大会が好き。マキマさんも好き。

 

テラスハウスTokyo 2019-2020

Netflix。最近問題になっている死去したメンバーが、入る前の回まで観た。前にも書いたが、恋愛関係の移り変わりとかが馬鹿らしくて良い。作品として、善し悪し抜きでエンターテインメントだと思う。

 

 

〜近況報告〜

 

・ギターのコードチェンジが難しい。本腰を入れて鳴らして行こうと思う。

 

・会社での胡麻の摺り方がわからないので、胡麻摺り器の購入を検討している。

人間皆んなバカ(真理)

よぉバカども、金寄越せよ

政府からの10万円の応募用紙が届かねえ、マスクも届かねえ、仕事教わってる振りして座ってるだけで金は入るし、マスクも親と職場から貰って家に100枚以上あるから良いけどな

最近金が有り余ってるからよ、アマプラに加えてNetflixにも登録したんだわ

そんで何を観てると思う? テラスハウスだよ。話数を重ねる度に人間はバカだと思うね。コロコロ恋愛関係変えて、それが場面場面でちゃんと映えてるから面白い、台本無いとか言うが寧ろメンバーが演出しつつ台本作ってる感じがするまである、YOUや山里亮太が観客で、俺ら視聴者が全体を俯瞰する、つまりは神様的な観点に居る。何処までも気持ちの良い、快楽の為の番組、エンターテインメントの鑑だ。あれで本当に台本が無いなら製作者も含めて本当バカだと思う、まあ実際製作者もバカなんだろうな

俺は原理主義も全肯定主義も好きだけどよ、事恋愛に至れば観点に選ぶのは後者なんだよな、だから隣に立つならこうじゃなきゃダメとか良くわかんねえんだわ、相手を変えるのも良くわかんねえ、一生に一人しか許せねえし許さないんだよな〜

まあだからって恋人に対してイエスマンになるのは嘘つきのすることで、そういう奴はイエスタデイの方角ばかり見詰める。今期やってるイエスタデイをうたって(アニメ)も面白えよな、奴らも恋愛関係コロッコロしやがる、くだらねえよな〜、

心ってのが実在するならそれは流動的なんだろうが、それは普遍性を求める意味での流動なんだと思うし、流動性に行き着くように見えるなら手前が若々しく息吐いてるってだけなんじゃねえかと最近は思うんだわ、俺が年老いて行ってる証拠だな、何より創作をしてねえ、耄碌したらダセェもんしか作れなくなるからな、反抗心も枯らしたら何が作れるってんだろうな、俺にはよ

兎に角有り余っても有り余るだけの金が欲しいし言葉が欲しい、世界の全部が欲しい俺の世界は惨めに小さい、どうせ死ぬなら大小に意味は無いか。

バカなんだよなぁ〜〜人間は、俺も例に漏れず。

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道に狸が死んでいた

死に対する見方、観点、視座というものが明確に変わったのは、去年の事だ。

僕は成人するまで大したものを失くして来なかった。そういう意味に於いては幸福な人生を歩んで来たのだと言える。皮肉な言い方だが。

大人になってから失くしてしまったものは、幾つかあるのだろう。自分とは一線を画したもの。此岸から彼岸に行ってしまったもの。手を伸ばしたところで、もう届かないもの。

そういうものへの自覚が、積み重なって今の自分がある。僕はきっと完璧主義者だから、欠けたものを見ることでしか対象の輪郭を掴めない。対象が例え自分自身でも。心に空いた孔の形状、相対的思考による劣等感、そういうものが充たされない自分の輪郭であり、全部だ。

死というものにどれだけ惹かれるのか、どれだけ引き摺られるのか、それは人それぞれだろうが、多くの人はそこに恐怖を感じるし、だからウイルスの流行の収束を希う。

個人的な死生観の話をするなら、天国も地獄も存在しないのだと思う。僕は無神論者ではないが、死後の人間が生前の姿のまま何処かでのうのうと暮らせているとは到底思えない。死後はブラックスクリーンでも何でも無く、空無という概念が存在しない程の無、例えようのない空に帰るのだと考える。

だからドラマチックに人が死ぬ物語は売れるし、人は死なんかに意味を見出そうとする。愚かにもね。金の動き方から推察するに、たぶんそこら辺は共通認識として人間の脳に刷り込まれている。幼児でも死の悲しさみたいなものへの認識があるのだと僕は思う。

けれど、死を直視するのはそれとは別で、簡単なことではない。目を開かせるには物語の閲覧数など無意味に等しくて、もっと深い感傷が要る。

僕は認知症の祖父が死んでも別にそれほど深く悲しみはしなかった。驚きはしたけれど。祖父からは戦争の話を聞いたことがあって、なんとなく偉い人だという認識を僕は持っていた。けれど僕にはそれ以上ではなかった。特別心の繋がった存在ではなかった。

目が開くのは、自分のパーソナルスペースに入った、自我を構成した要因である人が、死んでしまったときなのだと思う。勝手にパーソナルスペースに入れた人の場合も大いにあるけど。

ともあれ、僕には去年、そういう事があったのだ。

失えば戻って来ない。あの人はもう居ない。僕はそう思う度、生き急いで、或いは死に急いでしまう。良くわからないままに、漠然と死の匂いを嗅ぎ続けて迷走してしまう。普通なら防衛機能が働いて、匂いなんか嗅がないようにするのだろうが、僕は去年からそういう箍が外れた。

通勤で通る山道で狸が轢かれているのを見て、その事が少し確かめいた。上り勾配の緩やかさの割に、呼吸はし難く、荒くなった。見開いた目も、剥き出しの歯も、頭の出血箇所に集る蝿も、彼の全部が死であった。

その後、勤務中も彼について考えはしたけれど、考えたところで何かわかるものではなかった。帰宅して酒を飲んで忘れようとした。

動物なんて何れ死ぬ。人間も例外じゃなく、どうせ死ぬ。人の傲慢さに拠る死は避けようがあるのか。人間の力で回避できるのか。僕は無理だと思う。大人になって諦めてしまったのだろう。

酒のつまみに食べた肉は美味しかった。別にそれを嘘だとは思わないし、寧ろ素直な感性なのだと思う。開き直りでもなんでもなく、直感的にそう思うのだ。

 

そこに但し書きをするのであれば、人間はこうして罪を背負うのだと、ただ、そう思う。