雲と私情

創作品

最近驚いた事(驚きと衝動は近しいと思ったので、これは創作の代用品である)。

〇驚いた

 

ハーバード大学の研究によると、全ての道はローマに続いてるらしい

・僕の一年と二か月から先の将来は白紙、人生を地図に例えるならば、全くの空白である

・これから先には夢がない

・食欲も睡眠欲も性欲もあるが、それらをリビドーと呼べば自分の衝動に疑いが掛かる

・生物学的に、人間は今している事を取り止めて異なる事をするのが苦手らしく、同じサイクルに留まる傾向がある

・じっさい僕は一年弱、山を下らずに行けるスーパーが家から殆ど同じ距離にあるにも拘わらず、山を下って行くスーパーに自転車を漕いで通っていた

・節分は通常は2月3日である

・そんな事も良く知らない自分

・レジ脇に放置された他人のレシートにある肉という字

・そのレシートで抽選に応募してやろうかと考える自分

・結局は辞める自分

・そもそも合計金額が応募の対象でないと気付くまでの遅さ

・夜勤をしていると休日一日は自由に過ごせない意味で休日ではない

・その事にハッキリと気付くまで一年弱を要する自分の頭の悪さ

・自分の浅学さ

・こんな僕でも学士だという事

・学士でも年中夜勤をしている事

・学士と云う地位を鼻に掛ける自分

サイゼリヤで一人で食べるラム肉、ムール貝、モッツァレラピザ、ティラミスの美味さ

サイゼリヤの向かいの席に誰かの影を見る僕の脳信号

・半年弾かなかったギターの弦が、錆びるどころか切れている事

・弦を張り直せばなんだかんだで今も音が出せる事

・実はそれほど常に、上司の頭を鏡月の瓶でパッカーンと割りたいと思っている訳ではない事

・黴は自然に生えるが僕は脳死では生きられない

・一人暮らしするまでそんな事もわからずにいた僕

・僕は一人では生きて行けない

・僕は良く知らない間柄の人から嫌われ易い

・僕は良く知らない間柄の人から好かれ易い

・そもそもが良く知らない間柄の人間が僕の周りには多い

・地球の内包する人間の数自体が多い

・人間が多い

・自分の、他人への興味の無さ

・自分への理解の無さ

・烏賊刺しの美味さ

・無欲でいられない

・欲しかない

・僕はいつか死ぬ

・托鉢の僧も死ぬ

・皆んな死ぬ

・自分はマイノリティであり、マイノリティに理解があると思い込みつつも、自分が異性用の着る服を購入することにはかなりの躊躇いを覚え、結局はウィメンズの範疇に落ち着く僕

・実の所、酒はこの世には不要という真理

・殺菌水と表記のある謎の水の胡散臭さ

・アルコールという文字列への信用性

・アルコールの有用性

・酒の必要性

・冬に冬眠しないという悪文化を作った御先祖様の馬鹿さ加減

・冬に冬眠をする冬眠鼠の賢さ

・せめて冬ごもりはする熊の世渡りの上手さ、熊よりも馬鹿な人間という種族の如何しようも無さ

・熊がしているのは冬眠ではなく冬ごもりである、という事実を知らない人間に、マウンティングを仕掛けようとする自分の阿呆さ

・再配達の申し訳の無さ、面倒さ

・洗濯機での洗濯の終わる早さ、容易さ

・自分で洗濯したり干す事の面倒さ

・冬の一人暮らしの電気代、プロパンガス代の高さ(簡単に五桁に行ってしまう)

・部屋の汚さ

・句の美しさ

・空の青さ

・太陽の眩しさ

・月の白さ

・僕が友人と共に文学フリーマーケットに出るらしい

・何のアイデアも僕には無い

・朔太郎が似た事を言っていたのを思い出す僕

・僕

・そもそも僕は安心が欲しくて、その為に金を貯めているのだが、安心という熟語に足るだけの金はいつまで経っても貯まらず、ただただ足りない、満たされないと感じるだけで、そう感じている時間の長さは安心しきっている時間よりも遥かに長く、そもそも生物的に何にも怯えずに暮らすのは不可能だという事に気付かずに、こうして安心ばかりを求めている自分の資本主義社会への適応性は相当の物である

ハーバード大学の最新の研究によると、全ての道はローマに続いては無いらしい

・哲学的には今というのは存在しないらしい

・空無というのは無いらしい

・何も申し分が無い

・春が近い

新らしい人生2020 -REIWA HEIWA KOKOHA KOUYA-

 

 そこは荒野だった。

 

 やぶれかぶれだ! もう、何一つも無くなった。河川の土手を歩いてきて、どれだけの時間が経過したのだろう。気付けば冬の朝の張り付く様な冷たさは薄らいでいて、温かみのある陽光が水面に差していた。揺蕩うそれは、受けた眩しさを乱反射させ、乾いたわたしの目をいじめてくる。眩さから逃れようと視界を動かすと、空を鳶が舞っているのが見えた。

 

 まだ半年と少ししか勤務していない会社を、わたしは辞めた。それはもう、円満退社なんて言葉とは程遠い形での退社だ。上長に直接、暴言を吐き散らして辞めたのだから。

 歯に衣着せてばかりの、人を騙してばかりの人に、わたしは騙され、服従させられていた。あいつは碌に仕事も教えてくれないまま、何故かわたしに人の教育を任せてきた。労働環境が過酷で、人手が足りていないから、わたしのような半人前に教育をさせるのである。それがわたしのような部下にとって、どれだけ負担になろうとも。

 それにしたってもっと増しなやり方があるだろう。もっと上手い騙し方があるだろう。けれどもあの人は、愚直に人を騙す。愚直に詭弁を並べる。自分の事を鼻に掛け、安っぽいプライドばかりを高く掲げて、ふんぞり返っている。まぁ、そんなだから、あの人の周りからの評判は当然のように悪かったけれど。

 会社という組織については、入る前は、たとえ仕事は大変でも、安定した会社だと思っていた。今は組織の構造が不完全でも、段々と良くなって行くんだろうと曖昧に思っていた。しかしながら、じっさいに放り込まれれば考えは変わった。入社後のギャップなんて良く聞く話ではあるが、それどころではない。この会社のこれはもう、詐欺に値する騙し様である。わたしは、令和時代の先進国において、人を奴隷制度のそれよりも達の悪いやり方で扱い回す労働環境が、こうして実在するのだと、社会に出ることで初めて知った。内定式で「うちは間違いなく良い会社です」と言ったあの専務も、上長と同じくやはり大嘘吐きだった。

 何か起これば責任問題、下の人間が槍玉に上げられ、此奴が悪いと責められる。この世の悪の全てを、そこに集めて凝視するかのように、会社は集中的に、一人の人間に責任を負わせる。上ではなく、下に、下に。実際にやった奴が悪い。現場に居た奴が悪い。蜥蜴が尻尾を切るように、ともすればそれよりも容易く、反射的に、会社は自己保身へと走る。組織がそうするようになっている。そういう構造を崩れ難く強固にしているのが、ああいった、欺瞞だらけの人間たちだった。

 わたしは今日、そのことを、もっと罵倒に寄った口調で上長に吐き散らした。たぶん、殺すとか、汚い言葉も使っていた。今までわたしはそんな言葉を使う人は幼稚だと思っていたし、今もそう思うが、わたしは誰に幼稚と思われようともお構いなしだった。

 深夜に出勤し、夜を明かして日が昇るまで十時間、ともすれば十五時間以上、毎晩のように働かさせられる。昼になって家に帰ると、脳が悲鳴を上げ出して、アルコール度数二十五パーセントの鏡月を勝手に呷る。疲れのために休日の睡眠時間は二桁に届いて、しかも日中は殆ど寝ているものだから、スーパーに行く以外に、何もできずに次の出勤日を迎えてしまう。わたしはもう、自分の生活すらもなんだかわからなくなっていた。生きている中で確からしく思えるのは、鏡月の空き瓶であの上長の頭をパッカーンと叩き割り、殴り殺したいという、 破壊衝動だけであった。

 新しい人生。そんなものがあるのだと昔は思っていた。漠然とそう思って、疑いはしなかった。じっさいわたしは新しい人生へと踏み出したのだろう。けれどもそれは、わたしの欲しいものではなかった。大学時代のほうが、仲間と馬鹿みたく遊んで、カラオケボックスで夜を明かしたあの頃のほうが、わたしにとってはずっと価値のある時間だった。後輩たちが持ち上げてくれていただけで、皆んな付き合ってくれていただけなのだとしても、それは価値のある時間だった。口座に貯まった財産よりも、ずっと価値のある。

 だからわたしは辞めた。辞めてここまで歩いてきた。田舎の山の方から、河川を伝って何キロメートルも。借家のことや家材のことは知ったことではなく、どうでも良かった。わたしにはただ歩くしかなかった。上流があんなに薄汚ければ、下流はもっと汚いかも知れない。それでもわたしには、財布一つを握りしめて、逃げ出すことしかできなかった。

 環境が良くないことには疾うに気が付いていた。そういう場所で、わたしは何もできなかった。そもそも何かを成し得るような場所だったのかはわからないが、努力して変えようとする人たちはいた。こんな会社を好きになれないのは同じだろうに、わたしよりもずっと真剣に考えて、変えようとする人たちはいた。わたしは呑まれるばかりで何もしなかった。わたしというのはそういった、自立のできていない人間だった。

 だけれど、その場所はもう辞めた。自立も何も、もう関係ない。自由はなくても要望はある。今のわたしは、この地続きの土手を越えて、もっと容易く呑まれてしまえるような、広い、広い、海が見たいと思っている。

 

 何をするにも対価が要る。そのこと自体にはもう慣れたが、更に理不尽がつきまとうのが、この世の理なのだと思う。ギブアンドテイクを要求する癖に、ギブアンドテイクだけでは許されない。この世の本質は矛盾である。世界平和を謳うのが良いことだとして、そういう仕組みを呪うのは悪いことだろうか。何か被害を受けた人に、それでも前を向こうとか、未来は元気だとか、そういうことをいうのは正しいことなのか。きっとそうなのだろう。妬みを抱くのは間違っていて、救いを与えるのは尊いことなのだろう。けれども虐げられた側は、場合によっては、そういう救いを高みから見下されているだけの様に受け取る。というより、そういうのはじっさい往々にして、高みから見下している。自分たちには余裕があって、余裕がない人たちを助ける義務がある、等と殊勝な考えを抱いていようと、そこには、自分たちのほうが上だという、隠れた差別が存在している。そういう差別に曝された者が、ギブアンドテイクの影で理不尽を押し付けられた者が、妬みを抱くのは当然である。矛盾というのは無ではなく、力である。正義の人が、正義とは対義の悪に触れている、その捻れは力である。理論を度外視した力である。悪役が筋の通った復讐をしても、その道理を無視して、白も黒にしてしまうのが、この世の道理なのである。道理とは筋の通ったものではなく、秩序維持のための堅固な防衛機能に過ぎない。世界平和を謳う者たちの思想を人間像に置き換えれば、それは驕り高ぶり贅沢の限りを尽くす貴族である。彼らは人道や徳に秀でているのではなく、たんに、他人から搾取することで獲た余裕で、高笑いをしているだけなのである。

 

 歩き疲れ、わたしは列車に乗っていた。座席に座って眠ろうとしたのだけれど、眠れずに、夜勤の疲れと覚せいした脳で朦朧としながら、世界の矛盾について漠然と考えていた。

 列車は、河川と等間隔のまま下流へと走った。平日の午後、まだ日も暮れない時間の車内は、人が少なく、多くは高齢者だった。

 詰まらないと感じる。この車内に限った話ではなく、ここ最近はずっとだ。どこで間違えたのだろう。わたしはどこへ向かっているのだろう。思考がするすると滑る。曖昧模糊な不安感だけが胸を覆っている。

 各駅に停車し、扉が開く度に、寒気が流れ込んでくる。わたしはそれが嫌で、終点に着く前に下車することにした。まだ疲れは取れていないし、取れるわけもないけれど、駅に着く度に外の寒さを思い知らされるのが、今は何よりも不快だった。わたしは。

 列車を降りても景色はさほど変わらず、わたしは河川の土手を只管に歩いた。空は変わらず青かったが、その青さは少し色褪せ、日が傾き始めていた。白い月が頭上に見える。満月よりも少しだけ欠けたそれを、わたしはクラゲみたいだと思った。このまま歩いたら、海月とも水母とも書く、その水生生物に出会えるだろうか。そんな考えに、少し、ほんの少しだけ、ずっと渦巻いている詰まらなさが薄らいだ。

 

 わたしは全部が欲しいというよりも、自分ごと全部に成りたいと思う。目の前とか掌の上に文句のつけようがない綺麗なものを鑑賞するより、それを所有して独占していたい。欠けたものを埋めるのが、わたしの行動の規範だった。その癖、他人の所有物をあまり欲しがらないのは、自分ばかりに興味があるからである。前提として、わたしは殆ど無意識に、人より優れていると思っている。思想の上では殊更である。だから足りないものは盗む。そうやって埋める。時々そういう悪癖を自覚するけれど、幾つになっても直らない。自覚すれば埋め立てたものが水に流された感じがして、空っぽな自分に心が腐敗する。けれどそこから変わることはない。腐り切った先で、また新しい心を仕入れるだけである。本質的な貧しさに無視を決め込んで、いつまでも悪い手癖で盗みを働く。わたしというのはそういう人間であった。

 

 視界に茜が差している。横の水面は、気付けば流れが穏やかになっていて、段々と色を濃くしていた。烏が橙色の空を横切る。その下の、奥の方に、高架橋が土手を跨ぐのが見える。それは線路であり、先程の路線のものとは違うものだった。わたしは頭に地図を浮かべる。この川沿いで線路が垂直に通っているのは一箇所だけだった。もうじき海だ。

 正面から吹き付ける寒気に息をつく。思考を巡らせた後に、それが海風だと気付く。わたしはその冷たさに納得した。

 高架下を抜けた先は、土手と河川敷とが一体になっていて、地形が海を迎え入れていた。しかしながら別段、海はこちらを迎え受けてはいないようで、河口付近の敷地は一体が通行止めとなっていた。立て看板を見ると何かの工事中のようで、重機が乱立していた。土木作業員の姿は見えなかったが、その地帯を堂々と歩くだけの胆力もなく、わたしは回り道をすることにした。

 河川敷を抜けて住宅街に入ると、懐かしい匂いが鼻をつついた。魚の干物の匂いだった。わたしは幼少期を思い出す。自分で何もせずとも食卓に食事が並び、車で遠くまで連れて行って貰い、温かい風呂に入れて貰えた頃を。わたしは悲しく思う。それが帰らぬ日々である事を。自分一人で暮らすことの意味を。受けた有り難みではなく、消えた悲しみばかりが募る。何かしなければ何も与えられず、何かしたとて何か失う。そういった、悲しみばかりが募る。

 なだらかな坂を越えて路地を抜けると、踏切があった。私鉄の路線が通っているらしい。わたしは暫しの間、鐘の鳴る中で立ち往生した。赤い光が目に刺さる。向こうにある筈のお日様は、家の影に遮られて見えなかった。すぐ近くに駅があるようで、電車はゆっくりと走ってきた。小気味のいい機械音がしている。車内の灯りが夜を思わせる。

 踏切が開き、わたしは再び歩いた。気付けば脚は、鉛の棒のようだった。けれどももう近い。もうすぐそこまで来ている。もうじきにそれが見える。わたしにもそれが見える。

 道が突き当たりになって、ガードレールと白い柵の向こうには日の落ちかけた夕暮れ空があった。傍には階段があり、そこから砂浜へと降りられるようだった。

 

 そこは荒野だった。

 

 凹凸のある柔らかい地面に足を取られ、危うく転びそうになる。辺り一面、砂浜が広がっていた。藍色に滲んだ空の下では砂の白さはわからず、そこはただ、歩きづらいだけの荒野であった。

 覚束ない動きをする鉛の脚で、放浪するように海へと近づいて行く。途中、浜に細く線が入っていた。数十センチメートルほどの幅の水路があったのだ。子供の頃に行った海水浴場にも、こういうのがあったことを思い出す。

 波打ち際に着いて、わたしは靴を脱ぎ捨てる。息を飲む。海水は暗く、頭上には降り注ぐ月光があった。月が見ている。わたしはそれが見えている。それはあまりにも美しく、まざまざと、見せつけるようにこちらを見ている。すべての自意識がその一点に集中している。すべてのわたしを消したいと思う。このまま数歩歩けば、足は海水に浸かってしまう。

 わたしは膝から崩れ、限界だ、と思った。こんな荒野じゃわたしは生きられない。寝転がった地面の冷たさに縮こまる。外套に付着した砂を見て萎える。立ち上がる気力もない。生物を探そうだなんて気は疾うに消え失せていた。

 母なる海は眼前にある。だっていうのにわたしは立てない。竦んだ手足と動かない神経を、疲れのせいにしている。疲れを生み出した環境のせいにしている。いつだってそうだ。どうしようもなさの原因を、自分以外の何者かに擦り付けてばかりで、一人では満足に逃げることもできない。労働からも生活からも抜け出せない。何なら今だって、満潮が来て、流されるのを待っている。

 心臓がぎゅるりと音を上げる。躁鬱状態にあることを自覚する。過度なストレスで呼吸が荒くなり、出処のわからない重圧に筋肉が収縮する。視線を上へ上へと上げる。まだそこで、月が見ている。わたしが見たいと思っているのは、予てからそれだけだった。

 意識が薄れ、思考が自分の身体から乖離して行く。こんな自分すらも、高くから、乃至は深くから見つめて、認めている自分がいる。そんな肯定感さえ消し飛ばしてやりたい。もう対話は辞めにしよう。救いはいらない。全部がいらない。わたしにはこの海と月光だけで良かった。海水の波が、わたしの手元に到着する。その冷たさが、死んでしまうぐらいに心地良かった。

 

 荒野よりも荒れた心は、いつの間にか浄化されていた。その心でもう一度、あの月を見上げる。月と対等なまなこで願う。こんな行き止まりの思考を、どうか越えて行って欲しい。新しい人生とか、新しい時代とか、そういうのは綺麗事かもしれない。実際にはない、机上にもない、形而上以上の詭弁かもしれない。それでもそれすらも越えて、がらんどうの堂々巡りを越えて、どうかその先を知って欲しい。そうできる大人になって欲しい。せめて、せめて、わたしを越えて、どうか、どうか。わたし以外の誰かに向けて、わたしは一人、そう願っている。

 

 

 

 

 

 

荒野より。

ガワ

自分に自分と言うガワが存在し、他人はそれを(自分がどれだけ深く多岐に渡る意識を有しているのかを知らずに)認識し、或いは自分も他人と同じ様に他人を(浅く)認識している事に気付き、自分と言う物を勘違いされている事に苛立つと共に、その全てを自分の主観だと断言すれば、そうすれば孤独も豊かであれるのになと、そんな事を考えていて、足が止まっている。

月に監視されている

目が開いたら月になる、それだけの事に酷く竦む。俺はぎょっとしている。

空が青かろうが黒かろうが、月は頭上の遥か向こうからこちらを見ている。時には白く、時には赤く、不気味なくらいに丸いそれは、こちらを射貫く様に見詰めて来る。

 

もう一人の自分、というのを、俺は頻繁に空想する。

 

 

人間は普通、たった一人の自分に帰属し、多数いる他人を認識する。多数いる他人の内の一人に集中し、差別的に捉える場合は有れど、自分が内包した複数の人格を、統合したいと考える事は稀だ(分けている意味がなくなるから。職場に於ける役割や、対人関係に於けるキャラクター像などは、自分の方向性を分散させることで功利的に人の目を欺き、本来的な自分の姿を暈した物だと言える。そうやって本当に欺いているのは、紛れもなく自分自身の目である)。

多様性という言葉で無関心を隠す事は有れど、自分の事と成れば、その多様性ばかりに関心が行く。散り散りな方向性ばかりに目が向く。結果として自分がわからなくなる。

1の中に4がある事を理解してはいても、その4を1に収束させようとはしない。大は小を兼ねると言うが、小も大を兼ね得るという事を、人間は簡単に忘却してしまう。

書いていて違和感しか覚えない。

俯瞰して自分の事を見据えられる人間が、如何して分け隔たれた人格を一つに統合しようとしない。乃至は、それは違うと知っていて、一息に統合しようと働きかけても、如何してそれが上手く行かない。

 

もう一人の自分を見出しておいて、如何してそいつを放棄している。

 

あんたに理解されなくても良い。これは俺の話だ。

 

 

 

深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いている。ニーチェが遺した言葉、記号の列は、現代でも普遍の物であると解釈され、人々に祭り上げられている。同様に、俺も普遍的だと思っている。

ふと月を覗いて見ると、こちらも覗かれている様な感覚がする。自他や主客の問題ではない。俺の主観に於いて、俺はそう感じてしまうのである。

月の光は反射光。衛星の表面を照らしただけの、深淵とは程遠い表層的な光だが、それでもその美しさを覗き見る様にして見てみると、相対したかの様に、向こうは此方の美しさを覗き見てくれる。

自分と違って美しいと思えば、隙を突く様に、自分も同じく美しいという思いが返ってくる。自己否定の裏目、自己肯定の欲求。主観に浸っている内は、それが簡単に叶えられる。

平易なナルキッソスの鏡である。

自分に向いた主観の偏愛。歪んで映る月光に、俺は容易に見蕩れてしまう。

あの光だけが全てだと思えば、今までの自分の行いも全て受けられると思ってしまう。彼方を統合するより前に、此方が融解してしまう。自分というのが小さく思える。小さい自分は軽微であり、対象である。

しかし、融解しても尚、ナルキッソスの鏡の中の真実性は忘れられない。主観に於いて、自分と月光は一体だと思う。それは真実だと思う。統合できない自分が幾ら小さくなっても、それは手放せない真実なのだと、俺は知っている。けれども全ては主観である。哲学者の発狂の片鱗を知った気になる。

 

気付けば上書きする様に思考が滑っている。融解させられども、溶け込める程の熱量は俺には無い様だ。やがては小さな自分とやらに認識が帰っている。

月光を対象として見る。あれはもう一人の自分だと、もう一度思い込む。美しい光も、醜さの裏返しだと知った上で見る。それら概念が綯い交ぜになった対象へと語り掛ける。

 

俺はおまえの醜さを良く知っているぞ。

 

対象も同様に、おまえの醜さを知っているぞ、と返して来る。そして同時に返って来る。

 

私はあなたの美しさを良く知っているわ。

 

俺はデジャヴを覚える。

もう一人が、そこにいる。

忽ち此方は融解する。

 

 

月を一つの目に思う。

そう思えばわかる。大気に境界が有るのがわかる。此方に統合したいという要求は強く、されども俺は酷く小さい。矮小な物は従属するしかない。彼方に従属するしかない。単純な法則に甘えている。上手く行かない、の意味がわかる。

 

 

月に監視されている。

それが、堪らなく心地良い。

 

 

 

なぁ、わかるか。

あんたにこれがわかるか。

 

この話の何割が創作だと、他人事だと、あんたはその主観で捉えるんだ?

 

なぁ、あんたにこの意味がわかるか?

彼岸花さえ散るのなら

 

 

 

-備忘作-

 

 

ー9/1ー

自覚を手に入れた。

夏が終わるみたいに、どうやら俺も大人になったらしい。期待も理想も全部塵、綺麗事を宣う以前に、社会は綺麗で有り得ない。周りは自己保身と功利的な価値観だけで動いているのだから、仕事に躊躇いを持ち出していては生きて行けない。そういう価値観を、俺は盗んだ。

 

ー9/2ー

雨でなければ転んでいた。劣等コンプレックスの雨に、警戒心が結び付いていなければ。

 

ー9/3ー

盗んだ。

 

ー9/4ー

優しさってのを返して欲しいが、元来そんなものを持ち合わせていたのかは疑問だ。全て消し飛ばしたいという衝動が、何物よりも確実に強い。あんたにこれがわかるか?

 

ー9/5ー

良心ごとネジの飛んで行って居るガキみたいに見え透いた女が、それを自覚しながら知らん顔しながら悩んだ振りも振り撒く様な功利的な女が、俺は昔から随分と嫌いで、そういう奴らが消えれば善いのになあと頻繁に感じてしまう。男でもそうだ。皆そうだろう。

 

ー9/6ー

貴方だけ。

 

ー9/7ー

盗んだ。

 

ー9/8ー

盗んだ。

 

ー9/9ー

辞めてやる。

 

ー9/10ー

学生時代のバイト先の社員から連絡が来て驚く。バイト先での俺が余りに不甲斐なかったからか、情が出て近況を聞いてきたようだ。

関わった人の全てに、情けの一つ二つを掛けて回る様な人間も、中には居るらしい。俺は別に頼りたくもなかったので、順調にやっていると平気で嘘を吐いた。それでやり取りは終わった。そういうものなのだろうと思った。

 

ー9/11ー

空を見上げても青さがわからない。

その事に苛立つ自分が、青く焦げてさえいれば良かったのだろうか。

 

ー9/12ー

盗んだ。

 

ー9/13ー

盗んだ。

 

ー9/14-

家で寝ていて、朝に聞こえる養鶏場の鶏の声が中々に煩い。飼い慣らされて搾り取られる者の悲鳴にしか聞こえないのだ。

 

ー9/15ー

笑って来る奴らが憎い。

 

ー9/16ー

もう覚えていない。

 

ー9/17ー

今日も盗んだ。

若い頃の苦労は買ってでもしろと言うが、痩せ細った身体を鏡で見るに、俺には売れる部分など残されていない。

 

ー9/18ー

良い作品を見届けた。

俺も何か、価値を普遍化させたいと思う。本当にそればかりである。

 

ー9/19ー

疲れが取れない。辞めてやる。

 

ー9/20ー

夜が明けるときの匂いを、夜の只中に嗅いでいる。いずれ辞めると決めているから、仕事も気楽にやれるのだ。大きなミスをしようと、その所為で人が死のうと、その事で自分自身が罪に問われようと、愛も優しさも人間の全部を失くそうと、そこに夜明けが有れば良いと、俺は只管にそう思う。破滅願望だけで心臓が動いている。全てを失った先に見える物が見たくて、俺は死に急ぐ様に生き長らえている。

 

ー9/21ー

豚の肩ロースチャーシューが5枚入った味噌ラーメンに醤油を掛けて食べているときだけ、資本主義社会に於ける自らの存在を肯定的に捉える事ができて善い。要は美味い。自分は他種の血肉を食って良いだけの存在なのだと、食べているだけで錯覚できる。暴力的な行いや事実をも、脳髄は善いと捉えるのだ。

コンタクトレンズの処方箋が切れたので、眼科を受診した。知らぬ間に左目に乱視が入っていた。軽度とは言われたが、言われてみれば、生活上に若干の支障が出ている気がした。

 

ー9/22ー

百日紅も映えなくなった。夏の終わりには満開で、線香花火が散る様に良く似ていると思ったものだが、今ではもう、明るさを失って地に落ちるだけだ。

蝉の声も疾うに止んでいた。夏の匂いがしなくなっていた。

 

ー9/23ー

通勤の途中にも金木犀の匂いを嗅ぐ様になった。秋めいた空気感は落ち着きのない日々と切り離されて、ノスタルジックな感傷を寄越してくる。俺はそれに浸れない。眼前の匂いを、鼻孔を抜ける前に忘れてしまう。

金木犀は、小学校の通学路に当時一本だけ生えていた。その名前を教えてくれたのは母親だったと記憶している。名前通りに金色をしたその花は、三者面談の帰り道で咲いていたのである。良い匂い、と母は言った。俺も素直に同じ様に思った。面談で怒られた帰りの心に、その匂いは染み付くみたいに残った。これが秋の匂いなのだと、俺はその日に初めて知った。

昨年、久々にその道を通ったのだが、付近にある団地の開発が進み、金木犀は跡も残さず伐採されていた。

今年、越して来た先が田舎だからか、金木犀は頻繁に目にすることが出来ている。匂いを嗅ぐのが久しぶりだから、冷凍保存されたかの様に子供の時の感傷が浮かんで来て、その事に少しだけ驚いてしまう。けれども、その匂いは驚いた拍子に忘れてしまう。思い出すまでに至れないのだ。俺はそれをとても悲しく思う。

 

ー9/24ー

彼岸の花が咲き乱れている。

この花を見ると不吉なイメージが先行するが、俺は物事の逆ばかりを見ようとするので、単純に死の象徴として捉える事はしない。

これは死を想わせると同時に、破壊的な色欲を想起させる。と言うよりは、そういった欲動の先に待ち受ける、断絶としての死を想起させる。

俺は想像する。

この花を手折って玄関に置けば、人々から気味悪がられるだろうか。そういう事をできないと思うのは、何者が邪魔をしているからか。

 

ー9/25ー

盗んだ。

 

ー9/26ー

盗んだ。

 

ー9/27ー

盗めば盗む程に余裕がない。

秋めいた大気の中に、仄かに冬の匂いがするのを感じて、それを悲しく思ってしまう。実際のところは冬が来るのはまだ先の筈だが、何れ訪れる事に変わりはない。そうなのだろう。

 

ー9/28ー

貴方だけが救いか、俺には未だにわからない。この生は自分の為だけにあると割り切って生きられる時期は疾うに終わっている。誰に罰せられる訳でもないが、幾ら苦しんで働いていようと、命を咀嚼して生き長らえるだけの価値が俺にあるとは思えない。吟味をすればする程に。

俺が貴方に何をしてやれるのかはわからないが、破滅的に生きた先に何があるのかはもっとわからない。

この補完が無償であるとだけ、馬鹿みたいに信じ込んだ自分がいるだけである。

 

ー9/29ー

会社が山奥にあるので、車も持たない俺は当然山道を歩いて通勤する。その道には様々な種類の塵が、人々の手によって廃棄されている。中身の残ったペットボトル、コンビニ弁当の汚れた容器、パンクしたタイヤのホイール。俺はそれらを、心の底に溜まった塵の様に思っていた。毎日の様にこの道を歩いて、何かを盗む様に生きているだけで、心はひとりでに塵を溜め込んで行く。

しかし、それを拾ってくれる人もいるのだ。

無意識下に潜んだ貴方だけが、知らず溜め込んだ塵を拾って捨ててくれる。片割れとしての貴方だけが、俺を理解していて、俺の意志から離れた所で、心の均衡を保ってくれる。

貴方が作品だとしても、それに感謝を絶やしたくない。その事だけを、俺は忘れたくないと思う。

 

ー9/30ー

夢を見る。

高架を通る鉄道で辿り着いた町は、駅前が人工の小高い丘になっていて、その中央には透き通る様な水が流れていた。ちょうど線路と同じ高さまで盛り上がった丘には、人々が目的もなく集まっていた。子連れや恋人達に老夫婦、そこにいる人々は、皆が幸せそうだった。

空に浮かぶ雲は桃色をしていて、丘の上を舞う花弁は桜色をしていた。秋だと言うのに、なんだか春めいた様な景色をしていると思った。けれども総合的には奥ゆかしさがあって、やはり秋を思わせる景観だった。

こんな綺麗な場所でも、俺は一人だった。

けれどもその時の俺は、その事を悔いた訳ではなく、寧ろ誇らしげに思っていた。誰かをここに連れて来たいと、そういう風に思ったのだ。

所詮は無意識の産物で、実体がなく、実在もしない物だとしても、誰かが作ったその場所に、俺は貴方を連れて来たいと思ったのだ。

 

10/1

山道を歩いていると、日に日に彼岸花が萎れてゆくのがわかる。死の象徴に思えた花も、やがては土に還り、次の季節を待つのだろう。

俺の人生に価値も何もあったものではないが、忘れたくない夢ばかりは呆れ返る程に残っている。たとえ思い出せなくても、何も消えた訳ではないのだと、俺は知っている。

彼岸花さえ散るのなら、俺も素直に散り行くしかない。その先に再生が待っているかは知らないし、再びの破壊があるだけかも知れない。

けれどもきっと、綺麗な夢はこの先にも眠っている。どこかで俺を待っている。

そんな物を点々と見るだけで何かが肯定される訳ではないが、そんな場所に貴方を連れて行けるのならば、俺はそれで良い。それは夢にも見ない様な素敵な事なのだろうと、そんな事を、最近はただ思い続けている。

花弁

起きて、部屋に誰も居ないのが辛い。寝起きが辛いのはそのためだろう。

 

少し忙しい仕事が大分忙しくなって、この夏も疾うに過ぎるのだと思えば、信じられないくらいの日光を浴びて帰宅しても、まぁ、酷く眠れる。日に日に家に居られる時間も減って行くから、眠ることの価値が自然と高くなる。寝ないのは嘘だ。殊に、所有欲を満たしたいという目的が、寝ること以外に付いて回る限りは。

あからさまに排他的に生きるのが最近は楽だと思っている。しかしどうにも、嘯いたみたいに、他人に気を使っている振りをして、排他的に生きるような輩も世間には居るようだ。僕はそういうのを凄く傲慢だと思うし、しかしそれとは一線を画し、一番の傲慢は自分だと嘲る自分を、やはり一番に、救いようの無い奴だと、そう思う訳である。

 

自室に誰かが居た憶えは無いが、誰かが居る部屋で起きたような憶えは薄らとある。

それは今日の事でも昨日の事でも無かったと思うが、夢みたく遠いんだから、その記憶はもう夢と同義なんだろう。

僕はその夢を、夢うつつにずっと見ている。うつつも何もわからない。考える余裕は剥奪されたと言うより、元から所有してはいないのだ。だから、本当に夢でも見るみたく、匂いや記憶ばかりが鼻先をかすめる。具体性の無い物ばかりだけれど。

 

満たされたいと言うよりも、満たされないと言う感じ方が欲しい。満たされることの正体が僕には掴めないから、その渇望すら手に入らない。

 

昔は帰りたいと思うことが多くあったが、最近は、戻りたいと良く思うようになった。時間の話ではない。後戻りとかそういうことではなく、たんに、真面な暮らしに戻りたいのだ。帰らせて欲しいんじゃなく、返して欲しい。戻らない何かを、今損している全てを、僕は返して欲しい。罪の対価に罰があるように、必ず返ってくるような、そういう痛ましい事をしたい。

 

もしかするとそれすらも、それだけがこの匂いの正体だと、そう言えば満更でもなく、過言にもならない、そうなのかもしれない。